『らくごくら』 #27 「桂福團治・福楽親子会」

 
 ってな事はさておき、今回は全く知らなかった方々故に期待もしていなかったかわりにネガティブな事も考えていないニュートラルな気持ちでの視聴でしたが、実に結構な高座でございました。ええ、観ている時間を忘れるくらいに楽しませてもらいましたよ。
 
・桂福楽『寝床』
 マクラに義太夫についての解説を丁寧になされたのは今の時代ならではなれど、しかし迷惑って点では素人のホームビデオやカラオケ等での例えようはいくらでもあって、実際そういう物としてする方もいらっしゃる中であえて丁寧になされる様に、またその説明が無駄が無い上に聴き易いくてこちらも姿勢を正しましたがいざ始まる噺の姿勢、口調の柔らかさの心地いい事。それでいて今まで聴いてきた『寝床』の中でもかなり黒いユーモアとでも申しますか、焦点が義太夫に付き合わされる町内の人間よりも御隠居にあてられた感じになっていて人の善さも解る反面その義太夫がいかにとんでもないのか、依怙地っかスネちゃう所の愛嬌も含めてゆらりゆらりと楽しめるものでございましたな。
 
 で、
 
桂福團治『百年目』
 福團治師匠、何かMr.オクレ?げな草臥れモードげなお姿に不安になる。マクラもぼそ、ぼそ、っと間をとったものでお声も正直言ってあまり聴き取り易いものでもないような… と思っていたのもそこまで、羽織を脱がれた時にもぅビシッと、さっきまでとは別人の空気と雰囲気の人がそこにいて、実はさっきまでの福楽氏の落語で結構楽しんだし
「いや今日はもぅええんやないの?」
 と抜いた気分がもぅスッカリ吹き飛びましたな。会場の空気がさっきと全然違うのがTV越しでも解る程に、存在感が違うんですよな。でも演者が逼迫して観客に緊張を与えてそうなっているのでもなく、大声や大層な所作で集中を強要したものでもなく、もぅその佇まい、所作、語りで観客が噺の世界にもっていかれているというもので、それがまた実に心地良いんですよな… 最後のサゲで終わってもぅ満足、っとフト時計を見て吃驚したくらいに長い話だったようなんですが、聴いてる時間を忘れてたくらいに楽しんでしまいましたわ。
「あれは努力とか精進とかでなるもんじゃない。ある種の妖怪みたいなもんで、なろうと思ったってなれるもんじゃない。」
 と妻は申しておりましたが所謂「巧い」ってのとはちょっと違うと思うんですよ。凄い!って観ている時にこちらに無理から思わせるような演者の我が前に出たものでもないんですよ。観ていてすぅっと噺の世界にもっていかれたこの感じ、それこそ大きな川を大きな船でゆったりと下るような演者に身を預けきって微塵も不安にならない安心感とでも申しますか、いやぁこれはいいもんを観させてもらったなぁ… っと。この番組に感謝でありますわ。
 
 
 ただこの親子会が行われたのは4月25日、だからこその『百年目』であった筈なのを8月の終わり頃に放映、ってのはなぁ… まぁ色々な都合や事情もあったのやもしれませんが、季節感もまた落語には大事なんだし… と思ってるトコへの
「秋への気配を感じて頂けたでしょうか?」
 ってナレーションはねぇんじゃぁねぇの?(苦笑)。
 
 次回の初回放送は9月4日・午後4時から桂南光氏の独演会から、だそうな。
私は「桂べかこ」時代しか聴いてないんですが、ぶっちゃけ嫌いなタイプの噺家さんでしただけにちょっと微妙な気がしなくもありませんがさて… ま、楽しみにしときましょ。
 
 
 
 以下、余談。
 
 今回の「寝床」にしろ「百年目」にしろ、正直言うとよぉ解らん私であります。
「寝床」のサゲ、「そこは私の寝床でございます」というのはご隠居が町内の者を集める為に店で一番広い部屋のある場所って事で小僧らの寝起きする場所を使っていた、ってのは解ってるんですが、それじゃぁ他の奉公人らはどうしてたのか?となると腑に落ちない感じがどうにもしてしまいましての。それにそれだけの大店だったら別に奉公人らの部屋を使わなくても良さそうなもんだが… とか思ってしまうんですけども。
 
 また「百年目」ってサゲが「これでお終い、運の尽き」って意味なのは解ってるんですけども、そのフリとなる「長らくご無沙汰を致しております」「陰ながら…」等の長い間会わなかった者との会話を思わずしてしまうのが多分義太夫なり歌舞伎からの引用なんだろうなぁ… とは推測がつくのですがこれまたその出展元が解らないのでもひとつ腑に落ちない感じがしますがさりとて勉強をしようにも範囲が広ぅございますなぁ…