立川談春『赤めだか』。

赤めだか

赤めだか

 
 入場ん時に係員から手渡されたんで早速とばかりに開演前→仲入り→帰りの電車→帰宅後に自室、ってので一気に読了。とても面白かったが… 手放しで面っ白ッ! 楽しかった〜!って本ではないので読了してドッと疲れて寝る事にしたんだけども何せ中身が中身だけに眠気が訪れるのに結構時間がかかる。変に頭が冴えてしまうだけのものだったがさて… まぁ文中の視点やルビの振り方とかを見ればこれが所謂普通の自伝本とは違う事は明白で、「立川談春」という芸人の談志根多として実に怖い本で、そういう談春師匠が好きだが欲を言えば次の機会にはまた違う根多も出してもらいたいし出たら買ってしまうつもりですけど、さて…
 
 
 
 本と一緒に配られた今日の独演会のパンフレットには、スタッフの方によると思しき
「ただのエッセイにあらず。恋文、それも成就したのち、なおも高まる恋心が描かれた恋文です。」
 という一文がありましたが確かに恋というのは物騒なものでもありますからこの本は恋文でもあるかもしれません。でも、成就はしていないと思いますよ、この本を読む限りでは。本当に成就したと談春師匠が思っているのなら、多分この本は出ていないんじゃぁないんでしょうか。
 
 独演会のマクラにて
「書いてある事のほとんどが『うそ』」
 と言ったのは照れ隠しの憎まれ口もあるのかもしれないが正直なところも少なくないかと思われ… というと誤解を受けるかもしれんので一応言っておくと、『』で平仮名でとりあえず書いたものの、「うそ」でいいのか「ウソ」なのか、それとも口に虚しいと書く「嘘」なのかはマクラの時だけでは判断し兼ねたんですけど読了した時点での私としてはそれら全部であるけれどもあえて文字で表記をするのならばまぁ平仮名ではないかな?という感じがする、っていう意味ですから。ただその割合ってのか比率は当人ではないから何とも言えないんですけども。
 
 これまで立川流の落語家さんによる家元ネタとは明らかに違う目的と意思をもった、立川談春という芸人が今書いて出版するだけの意味と意義の上での談志根多を一言で表すのならば
「家元、あなたはこういう人ですよね、 」
 とつきつけたものでしょうて。勿論、
「お前にはそう見えるか。この立川談志が。」
 という家元の答えが返って来る事が前提、の。
だから連載を読んだ上で「好きに書け。何書いたって構わん。許す。」とまで言ったのは単によくある師匠と弟子の信頼関係というものだけではなかろうて。真摯だと思う。その点で双方共に誠実でもあると思う。だからこそ、怖い。「立川談春」という芸人の命をかけたものだと思う。これを書く事についての必要も意味も意義もあると思うがやってしまえば引っ込める事は出来ないし、それ以外の事柄もある… 自分と師匠、だけの事では済みませんからね… 逡巡はあったかもしれないがそれらを考えた上での覚悟のものの中から更に連載にはあっても本に収録しなかったりそもそも書かなかったエピソードが一杯あるんでしょう。
 目的が違えば… 例えば「かわいい談志」根多やら次郎長ならぬ立川流三国志とか、それが世間様にこれが立川談春の本なのか?と言われるような、全く違うものになっていたと思う。ただ、この本が少なくとも5年、10年という具体的な数字は特に無いのだろうが後に残る本として(多分、今、)出す必要があるという事も含めて搾り出された言葉だからこそ、あった事は全部事実でも『うそ』であり『ウソ』でもあり『嘘』なんだろう、と。
 
 
 

 …という読み方になったのは私がヒネクレ者、だからでしょうね。うん。