中電ホール『「丸善落語会」 立川談春独演会』

 

 開場までの時間があったので何を食べようかと思って考えた末、インド料理屋でカレーを食う事にした。落語会に行く前にカレーもねぇもんだよなぁ… っと自分でも思うんだけど、開場時間までの間に名古屋で美味い寿司や和食を食うだけの財布の余裕は無いし、蕎麦や饂飩の美味いトコを名古屋で、しかも栄で探すのなんてのは無茶もいいトコで、だからと言ってきしめんなんてのは論外… っと、昼休みにネットで検索して見つけておいた会場の中電ホール近くにあるインド料理屋にと行ったのだが、綺麗で落ち着いた店内、写真入りの分かり易いメニュー、店員さんの接客態度も良く、独りの初めての客をテーブル席へと案内してくれたので大柄&アタッシュケース持ちの私も落ち着く事が出来たし、オーダーから出てくるまでも早かったし、熱々のカレーにこれまた焼き立てで熱々の大きなナンは柔らかくて、文句のつけようは無いし、お腹も膨れたし、値段から言えば充分いい店だとは思うし本当に気持ちよくお会計をしていい気分で店を後にしたのだが満足をした訳ではなかった。
 カレーの量が、明らかに多かった。ライスなら?と思ったが、混ぜて食べる事を思うとやはり多く思ったが、実際やはり多かった。8段階中6番目の辛さを頼んで確かにそれなりの辛さではあったが、玉葱とチャツネやらのお陰でとてもマイルドな半面、辛さの為のレッドペッパー以外のスパイスの香りたちまでも包んでいて。
 店員さんと厨房のやりとりから察するに多分、店の人間と親しくなれば本場のカレーが食べられるのだろう。もしくは、そういうイベントなり企画の時ならば。栄という場所で、ランチもやっている店であまりに本場であっても支持されるものでもない。まして初めて来た独りだけの客がイキナリ本場を望んだって迷惑にしかならない。一口にインドカレーと言っても北と南では随分と違う。メニューに豆カレーが見当たらなかったように思うがそれらも含めて店の人間が考えて、色々と試行錯誤をした上での量でありマイルドさなんだろうと思う。それ自体に文句なぞ無い。立派だし、大変だと思う。その出来についてもよくやっていると思う。美味しいと思う。だけど満足はしなかった、というだけの話で。
 
 
 
 以下に長々と書く事はここまでの繰り返しと説明に過ぎないんで解る人には本当に蛇足以外の何物でもありませんし、落語素人の勝手な思い込み&勘違いだらけの駄文なのを承知してくれる奇特で寛容な方だけ
 
 でも本当にクドイし勝手な事しか書きませんからね。
 
 前日のワッハホールでの演目が立川こはる「千早振る」、立川談春「粗忽の使者」「鼠穴」、というのをネットで知ってさて名古屋ではどうするのだろう? っと思っていましての会場はほぼ満員。「残席わずか」の分だけの空席が最後列にありましたが、平日の夜にも関わらず色々な年齢層な様々な服装の方々で埋まっての前座で出る立川こはる。 
『らくごくら』で観た初高座の事を思うと上手くなったなぁ… っと思うんですよ。所作が落ち着いてきて、聴き易くなっていて。正直、こはるさんより下手糞な二つ目なんていくらでもいると思うし。でも、上手く喋れる女性の噺家、というだけで食っていけれるほどに世の中は甘くないだろうし、彼女の昇進試験がいつかは解らんけれども談春師匠が素直に心から合格を祝ってくれるような家元でいられる間に間に合うのだろうか? 突破する為の知恵と工夫は色々な人が教えてくれるんだろうけど、だが彼女が世の中の余分から切り取って食い扶持にする為の獲物っか武器は何なんだろう? っと思うと何も思いつかない。嫌な気持ちにはならない。が、少なくとも緩かった今回のお客さん達をもぅ少し笑わせる事は、今の技量でも出来た筈だと思うのだが…
 
 談春師匠の登場に満場の拍手。
ゆるゆると今回の落語ツアーの元となる自伝的エッセイ『赤めだか』についてのマクラになるが
「私程、自分で本を売ってる人はいない。宮部みゆき京極夏彦だってこんなには売らない。」
 と言うあたりに首を傾げる。ギャグなのは解る。談春師匠が本気で言ってない事も解る。が、何故そういう言い方をしたのか。客席は大受けだったので師匠はそれを通して続けていき、多分前夜大阪ワッハホールでもやったと思う「本には書けなかった四方山話」… はい、「狂気と冒険」です… に入るのだが、丁寧に丁寧に進める。時折、
「名古屋のお客さんはいいですね。想像力が豊かで。」
 と持ち上げるのが何度か入るが、この時点で何となく落ち着かない気持ちになってくる。嫌な汗が出る。素直に、多分師匠が予想したように笑い、見入り、息を呑んでいるんだろうと思う。勿論、一つ一つグッと客を捕まえて揺さぶらせ過ぎて疲れないようにしている師匠の技量があっての事だが、何でもかんでも笑う為に来ているお客さん達ではないようだし、意地んなって笑うのを堪えるようなヒネクレ者もいないようではあるが、それにしても… っと長い長いマクラが終わって入った噺が「棒鱈」。
「双方共に困った酔っ払い」とする人や「赤べろべろの醤油づけ」等を江戸っ子らにもの厭味とする人などもいないではないが、そもそも「棒鱈」という言葉が阿呆、田舎者を指す俗語なんだそうだが基本的には田舎者を嗤う噺で個人的にはあんまり好きではない。勿論、この噺が出来た頃の御江戸だか東京での薩長の人間の振る舞いもあるんだろうが… と思いつつの今回、田舎侍の座敷に来た芸者三人のうち馴染みが一人、勉強の為に連れて来たという二人の名前がミーちゃんとハーちゃんで、珍妙な歌を披露する侍を見つつ二人に
「ね? (このお座敷は)勉強になるでしょ?」
 と芸者が言う台詞は本当に袖の弟子に言ってんじゃねぇのか?って気になる。
で、面白いのよ。隣りで悪酔いしている寅だか熊だかがさらっと都々逸を流してみせての様もいいし、双方負けじと声を張り上げるようになるように芸者が煽るとこといい、そして侍に向かって叩きつける啖呵といい、ドスの利いた談春師匠にはよく似合う噺だとは思うし笑っちゃうんだけど心の底から素直に気楽に笑えれますか? しかもサゲ、単純に言い忘れただけかもしれないが、棒鱈が客のあつらえじゃぁなかった。ちょうど調理をしていて仕上げに胡椒を、という所での騒ぎで… となっていたんだけど、これもド忘れ、ただの偶然だとはちょっと思えないのだが…
 
 確かに笑った。が、正直言えば笑った後にザラザラとした感じが残る笑いで。
この時点で8時を過ぎていた。仲入りの休憩時間が15分、という事で入場時に手渡されたサイン本を読んで待つ事にしたのだが、仲入りがそろそろ終わる頃と告げる太鼓が鳴り始めるまで読んだ数十ページの間に確かに考え過ぎな部分もあるかもしれないが、あながち全部そうではないという気になる。客電が落ちてされどうするのか? と思うとマクラ無しで入るのが「明烏」で、好きな噺だけに嬉しい半面、何故これをもってきたのかという戸惑いが半面。
明烏」、数える程だが源兵衛と太助のような事をした身としてこの噺が好きなのは、これが綺麗な作り事だからで。いい歳をするまでの間の年月での鬱屈と言うか屈折がたった一度の経験でどうにかなるものではない。大抵、何かしら、何処かしら、しくじる。稀に、当人がそのしくじりに気が付いていないで調子に乗る事が無くもないがそういうのをひっくるめて事の後、焼肉屋なりラーメン屋なりで飲み食いしつつも諭したり宥めたりするのを何度かやってるからこそ作り事としての綺麗さに笑えるんですよ。で、色々な師匠方での「明烏」を聴いているだけにさて? と思っていると、師匠はこの噺を知っている人ならばこういうのはどう?という感じでのクスグリを入れてきて思わずクスリと笑ってしまったのだが会場の反応が、鈍い。え?っと思う。だって志ん朝師匠や先代の金馬師匠、雲助師匠や、色々聴いているからこそ親父さんのボヤキ方のトーンや返し方が私にはおかしくて仕方が無いのだが、どうもそういうのは求めていないようで。逆に食べた赤飯が菓子皿に八杯、ってのでウケる。何度か、師匠はそれでもこちらを試した。が、その箇所ではやはり会場は鈍い。で、そこで師匠が切り替えた。分かり易く、過剰になった。
それでも楽しい。楽しい、が、座敷での若旦那のイジケ様を
「中国の葬式でもあんなのいないよ。柱叩いて泣いてるんだもん。本場からお呼びがかかるよ。」
 や嫌々座敷で引っ張られてゆくのに襖を嫌々の格好のままブチ抜けてそのまんまの穴が開く、ってのが東京や大阪での談春の「明烏」なんだろうか。バカバカしい、ナンセンスなドタバタでの面白みはあるから笑ってしまうが、しかし「明烏」ってそんな噺だったっけ? 自分の好みを置いておいて、こういうドタバタの「明烏」は談春師匠でなければ出来ないのか? いや、私は聴きたかったのか、観たかったのか? 確かに、笑える。丁寧に、ベタにベタをクドくなり過ぎずに重ねて盛り上げていくのは見事だと思う。でも、じゃぁ、序盤まで出してくれていたクスグリはアレ、私の誤解、勘違いだったのか? と思うとやはりそうではないように思える。中盤から、ハッキリと物語への視点と姿勢が違うようにしたとしか、私には思えない。
 それは客をナメた訳ではない。
今日のこの席の観客を丁寧に探り図った上でのもので、実際に大受けになった。自分はこうだと押し付け居直る事はせずに客を図った上でのものを見せてくれたのは談春師匠ならではの誠実さだと思うし、腕もあってこその出来なのだと思う。そこに何の不満も文句も無い。凄いなぁ、上手いなぁ、っと素直に思う。
 
明烏」が終わった後、東京での親子会についての案内までしての終わった時間は9時を過ぎていた。本当に、たっぷりと談春師匠を味わえたと思う。会場から出る人達の顔は概ねにこやかに緩んでいるんだし、私も心持ちは悪いワケじゃぁない。でも、満足はしていない。名古屋という寄席の無い土地で、あまりに本気であっても支持されるものでもない。まして私のような、自分の都合と情況が合った時にしか行かないただの客がアレコレと望んだって迷惑にしかならない。一口に落語と言ってもそれぞれの土地の人に向けて、噺家さんが考えて、色々と試行錯誤をした上での事、それ自体に文句なぞ無い。立派だし、大変だと思う。その出来についてもよくやっていると思う。上手いと思った。手を抜いたワケでもないし勿体ぶった出し惜しみをしたのでもなければナメたのではない。手掛かりと言うか、また違う噺への片鱗はあった。談春師匠ならではの腕と誠実さがあった。おまけにサイン本までついての今回のチケットはとても、とても安いと思う。だけど満足はしなかった、というだけの話。