雑記。

 

 
・落語に手話「気が散る」抗議で謝罪…三笑亭夢之助さん独演会
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071101-00000099-sph-soci
 

 
 そもそも「天災」って一時間もかかる大ネタだっけ? ってのはさておき。
 
 昨日からこのニュースについて色々と思う事があるのだが、

  1. 主催側の市が三笑亭夢之助師匠側に対して企画意図やこれまでの実績や要望をちゃんと伝えていなかった。
  2. 夢之助師匠側も主催が市であるのに情況確認をしていなかった。
  3. 「みなさんも散りますよね。みなさんがいいとおっしゃるなら構いませんが。どうなんでしょうね」は芸人としての対応力と覚悟が足りないんじゃないのか。

 というトコロに落ち着いたんですが。
「3.」はやや失礼だとは思うんですけど、しかし私が好き嫌いはおいておいて意識して聴く、評価している落語家の方々を思い浮かべてみるに、自分の数メートル横に手話通訳者がいたとして

  • 「自分がちゃんと確認していなかったから」と諦め割り切って落語をする。
  • 一旦、高座を降りて情況を整えてからもう一度やり直しをする。

 という対応をするか、仮に注意っか苦言を言うにしても、もうちょっと違う言い方をしていると思うんですよ。んで、解せないのが喋り始めてから5分も経ってからネチネチ言い始めてるトコで、別に5分経過してから手話通訳者が出て来て横に並んだってのでも無かろうに何故に下手を3回も打ったのかよぉ解らんのですよ。後で謝罪するくらいならそういう手段なり対策をすりゃぁ良かったんだし、自分の芸に対する真摯さ真剣さだと言うのならばアレコレと言い訳や謝罪を一切しなきゃぁ良かったんだし。こうして全国紙でのニュースにならなかったら果たしてどういう事になっていったのかな?ってのは少々意地悪な見方だとは思うものの、私にはこの対応はえらく中途半端な感じは否めないんですけどね…
 
 
 
 以下はついでにアレコレと思った事の箇条書きなんでお暇な方だけ
 

  • しかし落語は基本的に都市の演芸場やお座敷等で行われてきた芸能である以上、差別的な題材やネタは決して少なくないってのも事実で、それら全てをも否定するようになる事は避けるべきだと思う。言葉狩りだか自主規制だか知らんが日本語が持っていた優しい配慮の部分を削られて「片輪者」「不具者」→「障害者」「●●が不自由な人」→「障がい者」ってのやら、おかしいっての。
  • 例えば「道具屋」「かぼちゃ」等の与太郎をウスノロの知恵遅れとして徹底的に差別的に笑い者に仕立てるのも噺家の自由だし、ちょっと間の抜けた人も世の中にいる事をおおらかに肯定しての柔らかい人情噺にするのも噺家の自由だと思う。実際んトコ、「牛の丸薬」「棒鱈」を必要以上に田舎者を笑い者に仕立てるのって好きじゃぁないんだが、そう解釈をして納得ずくで演じている事をどうこう言う気は無いんですよな。それは好き嫌いじゃなくて、あくまでもその噺家の人となりであり、姿勢だと思うんですけども。
    • だからこそ芸人の覚悟が必要なのだと思うんですけどね。
  • 私は聴覚障害者ではないのでこれは単なる疑問なんだけど、噺家の所作って通訳の手話とカブる事って無いの? 共通した意味の動作もある筈だが、所作の意味と手話の意味が違う場合もあるだろうし。言わば字幕で映画を観ている状態に近いのかなぁ? でも、字幕での映画は情報の欠落も多いし何よりも画面に集中出来ないのを思うと、それよりも複雑であろう手話での落語通訳が横に並んで、って形式は観易いんだろうか?
    • もちっと疑問なのが、今回演られた「天災」って「道灌」と同じ洒落や掛詞やらが非常に多いんだけどそれこそが笑い所ってタイプの噺の場合だと通訳ってどうなされたんだろう? 「小言幸兵衛」「たらちね」等の言い回しのおかしさ、「三軒長屋」の奔流のような悪態など確かに「落語は話し言葉でするもの。手話に変えられるものではない」ってのは実は一理あるんですよね。
    • また、手話通訳者がどこに立っていようと観客が演者に集中出来ないのは一緒だから「手話の方がいると気が散る」ってのも事実だとは思うんですよ。特に観客を見て話す師匠等は会場からの視線が散るってのは気になるでしょうしな。
    • そりゃまぁ着物や歌舞伎どころか歴史すら知っていない観客もいるんだから解らない事イコール観客じゃぁない、ってのではないんだけど、音の面白さってのは通訳でどうにかなるものでもないと思うのだが… ちょっとジャンルは違うけど、ラップを通訳されてもその面白さが伝わるとは個人的には思えないんですよね… 体で音を感じる事は出来る筈だからリズムは解るにしても、ミーニングはただ通訳されても伝わるんだろうか?というのはよく解らないんですが。
    • だから聴覚障害者は落語を聴くな、ってのじゃぁないんですよ。だけど芸能、まして古典芸能の中でも舞台にただ演者が一人で座って行う落語という非常に弱い芸能においては… ってのは仕方無い事ではないのか。
      • 勿論、無礼や非礼や演者の稚拙な判断ミスや暴言等それ自体は批判、非難されて当然とは思う。
      • だけど、世の中の万民全てに平等に理解出来て享受出来る娯楽は無い。そういう割り切りの部分は必要かと。
  • 多分、四代目桂福團治師匠らのように手話落語をなさっている方はそこまで解っている上での噺の選択や編集をなさっているんでしょう。逆に手話が手だけで全て行うものではないだけに、選んだ事が生きる演出になさっているんでしょうね。そのポイントとかは聴いてみたい気もします。
  • で、安来市側は何故落語で、あえて三笑亭夢之助師匠を選んだ理由ってのはどういう経緯、判断だったんでしょうかね?