今池ガスホール『第三回立川談春独演会』

 
 私ら夫婦が御贔屓の噺家さん、というと柳家喬太郎師匠、立川談春師匠、林家染二師匠のお三方、USA-P家にとっての御三家、なんですが夫婦共に同じくらいに贔屓をしているのが喬太郎師匠で、私よりも妻の方が肩入れしている
のが談春師匠、その逆に妻よりも私の方が肩入れしているのが染二師匠、ってなるのも夫婦ならではの面白味かな? っと思わなくもなくて。
 
 んで、
 
 演者と客双方にとって最高、完璧なライブってのは有り得ないんだけど、もしかしたら自分が行くそのライブが限りなく最高、完璧に近い、あと一歩ってものになるのかもしれない… っと思うからこそ、ってのも人が特定のライブに出かける事の理由の1つではないかと思うんですが、その理屈から言えば
「繁昌亭での談春ってのは限り無く最高、完璧に近いものの1つだったんじゃぁなかろか?」
 と、この日のチケットを購入してから暫くしてからフト思って妻に言ったら凄く嫌な顔をされて。
「しかも私らが観たのは初日だけじゃん? 二日目を観たら、きっとある程度の安心感をもった談春を観てフラットな印象になったかもしれないけどそれも無い。自分らにとってはあれが生での談春って基準になってるけど、それは凄く高いものだってのをよくよく頭に入れておくべきなんじゃないのかなぁ… 」
「田舎だからって手ぇ抜くって事?」
「まぁ名古屋だからそういう事もあるだろうしその可能性は低くは無いんだけど、それとは別にあそこまで気持ちの入った姿はまず観られないんじゃぁないのかなぁ… 」
 っと根が悲観主義者で猜疑心の強い私は自分の中で盛り上げすぎないようにとの戒めのつもりも兼ねての理屈だったんですが…
 
 まぁ結果から言えばその通りになっちゃったかな、っと。
 
 確かに運営側スタッフの質も悪くて半被着た人数だけウジャウジャいたけど脚の悪い人がいる事へのフォローどころか普通の人でも客席に誘導も案内しないでヘラヘラしてる様も気に入らなかったし、物販で売る商品をクソ薄いビニール袋に入れるせいで終始シャワシャワとした音をさせる事になってたし、開演から40分くらいになろうとしてるのに遅れて入って来る客をのそのそさせてるトコとかさ、酷ぇと思いましたよ。ふざけんじゃねぇって。
 客質も悪かったよ。味噌くせぇっか携帯の電源切らずにメールチェックしてる馬鹿とか所々いたし、自分の前にいたクソガキと母親が退屈してゴソゴソもぞもぞガサガサやってたり真後ろの糞夫婦が買ったパンフレットやらをシャワシャワさわさわペラペラさせてて両方とも蹴り殺してやろうかと思うのをグッと堪えなきゃならんかったけど、そういう客も一杯いたしね。ホント、繁昌亭のお客の質の良さがよく解るくらいに、中入りの時間を守れないでダラダラダラダラいつまでも席に着かなかったりと田舎じゃぁこんなもんかもしれんが… だからでしょうね、最初のマクラで談春師匠がちょっと田舎を腐すネタをやってましたが何のこたぁない、所詮お前らだって似たようなもんだよって言ってるのと同じでね…
 まぁそういう土地、場所、客を相手にって事もあったんだろうけれども、じゃぁそういう客までも襟首引っ掴むように高座へと持っていくようなものでもなかったな… っと。で、まぁこれが名古屋という場所での談春のスタンダードっか基準レベルならわざわざ名古屋での談春を追いかける必要は無いんじゃないの? そりゃまぁ東京や大阪の独演会のチケットが入手出来るかどうかも解らないし入手出来たとしても今日や12月のみたいにいい席が取れるとは限らないけれども… ってのが観終えての私ら夫婦の感想でありましたわ。
 スッキリした綺麗な芸ですし、初めて落語を生で観るって人にはオススメしたい人である事には依然変わりませんが、今日のは私らが大好きな談春ではなかったな、っと。
 
 
 
 以下は個人的な長い感想なんで興味のある人だけ
 
 ・前座 「垂乳根(たらちね)」立川こはる
以前『らくごくら』での「道灌」の事を思うと所作、特に正面の切り方が良くなっているのと喋りにモタつきが減って観ていて楽しいんだが導入部で「垂乳根」だと解って
「前座噺だったっけコレ? 確か長い噺だったと思うが… 」
 と思ったそれは娘さんが家に来たトコロで切り。もうちょっと後まで聴いていたかった気も半分、ちょっとトーンや間のとりかたの一本調子さから残りをやられても飽きちゃうかなぁ?って気も半分ってトコか。娘さんの出をハッキリ語らなかったものの武家言葉的だったから上方版かな?江戸版なら京言葉だけど京言葉には聴こえなかったってのはおいておいても十五分程度一生懸命さと真面目さが鼻につかないいい感じで気持ちを暖めさせてもらいましたな。
 背の高さも含めた外見と声質が田中真由美に似ている彼女、声優には背の高さは関係無いんですが舞台だとちょっとハンディになるやも。特に落語の場合は動けない分、どう対処するのか?ってトコも課題になるんだろうなぁ… っと余計な事も思わなくもなし。
 
 ・「鰻の幇間立川談春
 マクラが長い。面白いんだけどもぅ延々長い。二十分以上やってたんだけどその前半がクライマックスシリーズだの愛知県警の不手際だのの地元客クスグリのもので、まぁそれ自体は悪くないんだけどまとまりが無く。っか実に温い… 熱くもなく冷たくもない、ってそれじゃ「上燗屋」か… って雰囲気で、ちょっとアレ?って気にはなる。マクラの後半からは芸人、そして幇間の話っか説明になるんだけどもいい幇間とそうでない幇間、野幇間(のだいこ)の話と幇間の色々な話と説明だったんで朝の『ちりとてちん』もやってる事だし「愛宕山」かな?っと思ったら羽織を脱がず合図も無くヒョイっと入る「鰻の幇間」。
 経済的に困ってはいないがプロとして…っという幇間という解釈もさる事ながら騙す旦那側の得体の知れない胡散臭い人物造形が面白い。話を知っているだけにこの旦那が逃げてしまうのも知っているんですが、解っている上で見るとこの旦那の素っ気無いようでいて実に慎重に幇間が自分の事を知っていないという事を確認している様やその駆け引きの部分が余計に面白い。博打場とかにもいるけど、ああいう自分の手の内も勝ち負けも一切見せないんだけどそれが意地とか必死さではなく自然と見せてない人ってのは怖いもんだけど、ただ底を見せない隙の無いだけの人間ではなく妙な粋さを出している匙加減は良かった。
 ただ旦那は途中で噺からいなくなってしまうワケで、「そうすると銭はあるから払うよ、払うけれども!」っと残された幇間が「いかにこの鰻屋が酷い店か」を語る部分が現在的な要素、ネタを取り込んで理に立ち、解り易い分だけちょっと一本の噺としては分離している感じがしなくもなく。
 あと狭い鰻屋で二階に座敷が1つしかないようなトコで便所が二階にあるんだろうか?とか、若干聴いている最中でもディティールであれ?って思う部分が散見したりもしましたが、そういうトコもより分離してる印象を強めた感じがしたような気もしますな… なまじ旦那の部分の出来が冴えてるだけに、って。
 
 ・「九州吹き戻し」立川談春
 中入り後はちょっと客電を落とし目にしての舞台は白い座布団と真っ黒な着物での登場、
「退屈な方はどうぞお休みになってください」
 と言っておいて入るこの噺… 確かにまぁ爆笑するような噺ではないんだけども、「鰻の幇間」のマクラの途中でわざわざ「日本では私しか演らない話」「長くて面白くない噺」と断っていたけれども「包丁」とかの方がもっと笑える部分が少ないし、「子別れ」のような人情噺や「唐茄子屋政談」のように講談が元の物なぞ陰気で重い部分がテンコ盛りな噺やハッキリとした怪談ってのもあるんだが、それらと比べるとボンヤリとした噺と言うか… フト思うのが「三十石船」や「地獄八景亡者戯」のような情景を伝える事がメインの噺、のようにも思えるのだが談春の語るこの噺では情景の部分というのは殆ど無い。では江戸で放蕩を尽くした挙句流れ流れた男の人情噺か?というとそうでもなく… 何て言うんですかね? 何で談春はこの噺をするのか? どこが好きで、どこをどう演りたくて、ってのがまるで解らないんですよね。これより長い噺はいくらでもあるし、描写の難しい噺もいくらでもありましょうが、あえてその中から談春がこれをする意味とか理由みたいなのが私にはまるで見えてこないんですよ。成る程、巧いと思うし笑っちゃうんだけども、それだけであって珍しい噺を聴いたという満足は地方で生で落語を聴く機会の無い身としてはあまり無い、ってのもあるんだけど、「何故?」ってのが付き纏うんですよ。
 で、多分談志師匠は喜多八の、田舎ではあるものの成功者としての生活があるのを重々承知していても、それでも募る湧き上がる望郷の念に悶々とする業の部分こそをポイントとしていたように思えるんですが、談春がこの噺を演じている時に談志が垣間見えていてもそこに談春が観れなかったんですよ。綺麗にまとめてあるし、カッチリとして聴き易い。説明もしっかりしてる。だけど、それがこの噺のポイントか?ったらそうではないんじゃないのかと。上方の芝居噺がちゃんとした小屋で芝居を観る事が出来ない人達の娯楽としての語りであったように、こういう噺もまた熊本の情景や船旅等、実際にはそこに行けない人達の為の娯楽として語り伝える娯楽だったと思うんですが、談春師匠のはどうも「今ではもぅやる人がいない噺をやる」という事の方に目的が重く、それを解り易く伝えてくれるとは言っても… って思ってしまうんですよ。説明に理が立って通ってい過ぎるからこそよりそう思ってしまうんで、どこかで噺に入り込めないし情況や風景が見えないんですよね…
 繁昌亭の朝染二での開場待ちん時にね、寄席通いしている人達が情報交換とかしてたワケですよ。で、その会話をなんとな〜く聴いていたんですがそん中で
「そう言えばね、この前●●が「地獄八景亡者戯」をやりはったんですけどな、●●が言うには「あないなもん大した噺でもなんでもないで。誰でも出来るわ」って言ってましてな… 」
 というのを聴いた時にも思ったんですが、長い噺、大ネタを演るだけなら誰でも出来ると思うんですよ。特に体力のあるうちなら。でも、何故その人がその噺をするのか?という意図なり意識なり目的が薄く、ただ世間で言われている「難しい」「大オリの大ネタ」「数々の名人が挑んできた」とかの為の方が濃いのは私はあんまり興味無いんですよ。自分への師匠への捧げ物として、ってのもまぁ1つの意図なり目的だとは思うんですが、それにしても客としてのコチラ側を掴む物が薄いって印象は最後まで抜けませんでして… サゲっか落としで終わっても終わったって感じで、綺麗に決まった!となるだけの人物の描写や伏線があるものでもない噺なんで満足感も薄く… この噺をする事の思い入れはあるにせよ、巧い分だけ… っと。
 
 談春師匠が手を抜いていたとか客をナメていたとか、そういう事は無いと思うんですよ。緊張感というか神経を使っているのはよく解るんですが、そこで出てきた談春師匠は理が立って巧いんだけど気持ちの薄い、緩い、温いものでライブとしての満足感はあんまり無かったんですよね。この運営会社での独演会も三回目で今日も補助席を出すくらいに満員で次回もこれ以降も決まっているであろう事とこの客質とスタッフの質ってのもあればそうそう思い入れとか責任感とか気合を求めても仕方無いし無理だとは思うんですが… となると思うんですよ、
「もっと落語を、色々な師匠達を観ているお客さんが一杯いる東京や大阪での落語会、独演会でもこの談春なのか?」
 って。で、考えてみると多分そうではないだろうなぁ… って思ってしまうんですよ。
確かに落語ってのはそない緊張感や熱気や迫力を客に与えるもんじゃぁないのやもしれませんし、談春師匠は巧かったし笑いましたよ。でも、巧い人や高座姿が綺麗な人はいくらでもいるじゃぁありませんか。で、あえて談春師匠でなければ観られないものがあって、それが好きで観たいからこそ、なのにそうではなかった、っと。落胆はしないんですよ。笑ったし、楽しかったから。でも、それは私らが求めていたものじゃぁないんですよ…
 例えばね、会場でも売っていた談春のCD、

立川談春“20年目の収穫祭”

立川談春“20年目の収穫祭”

 がありますが、収録は2年前ですわな。で、コレに収録されている「九州吹き戻し」を落語の技術的に見れば今日の方が全然巧いと思うんですよ。かけた数もあろうし談春師匠の成長や経験もあろうしでこの2年の間で手を入れたり工夫をした部分は一杯あると思うんです。多分、たどたどしい部分や危なっかしい部分はCDの方が多いと思うんですよ。だけど迫ってくるものがあるのは多分このCDの方だろうな、って思うんですよ。こちらを掴み、伝わってくるものはCDなんだろうな、って。今日のは巧いんですよ。決して手を抜いたワケじゃないし客をナメて端折ったり馬鹿にしたりというものではないんです。そういう意味では真摯と言うか丁寧だし真面目な師匠だとは思うんですが、こちらにも聴くだけのものを求めちゃいないんですよ。客は見ているんです。多分、話していて楽しんでいるとは思うんですよ、今日は。しかし… ってね。
 
 妻もまぁ同じような感じでね、繁昌亭での談春師匠や染二師匠ん時には忘我というか妻の存在感とか空気とか意識みたいなのが消えてるんですよね。サゲや落ちで我に帰ると言う感じ。でも今回の場合は笑い声はしているけれどもそこまでは行っていない、何て言いますかなぁ… そう、普段、TVで落語等を観ている時と同じ感じで。終演後にロビーでパンフレットとかに師匠がサインをすると言うのを運営スタッフが言ってて、開演前に購入していた妻に
「折角やからサイン、もろうてきたら?」
 と何気なく言ってみたら妻は行って行列に並んだんで私が感じたのは間違いやったんかなぁ… 普段からサインとか興味無い妻なんになぁ… っと思って戻って来た時に
「よかったね、サイン。握手もしてもろうて」
 と言ったら
「ん〜… 」
 と、どう見ても楽しいとか嬉しいとかというのではない表情で。
「実際、サインとかどうも良かったんよ。自分の名前なんて書いてもらわなくったって別に良かったの。むしろ邪魔なくらいで。」
「?」
「私が好きで、観たいと思っていた談春を観た筈なんだけど、それがちっとも実感が無いの。面白かったよ。楽しかったんだけど『真夜中の弥次さん喜多さん』での「こんなのちっともリヤルじゃねぇ」って感じで。だから近くで談春という人を見てみたかったの」
 って御言葉で。
「で、近くで見てみてどうだった?」
「手が大きい人だなぁ… って思ったよ」
「じゃぁ『リヤル』にはならなかった?」
「リアルはリアルだけどね。握手もしてくれたし。でも『リヤル』じゃなかったな… 」
 繁昌亭での後、染二師匠ん後ん時はもぅこっちもテンション上がって興奮しててなんかいつもより多く酒飲んでお互いが感じた事をわぁわぁ何時間も喋り倒して今でも話せるんだけど、少なくとも今日はそういう会ではなかったな… っと会場の近くの鰻屋での夕食で出た鰻が「鰻の幇間」みたいなので二人揃ってより意気消沈になりましたなぁ…
 
 で、
 
 12月1日の御津町ハートフルホールでの独演会のチケットも既に購入してあるワケですよ。でも、
「もぅチケット押さえてあるから楽しみ〜」
 って気分じゃねぇんですな。
「もし12月も今日みたいなのだったら、もぅわざわざ名古屋とかでの談春を観に行く必要は無いという判断をする為機会にすりゃぁいいんじゃないの?」
「今日のようなのが普段のか地方でのかは解らないけど、そういう談春を観たって事を覚えておく、そういう日だったって事だよね」
 ってのになりましたとさ。
 
 期待はありますし、依然楽しみではありますが… 昨日までに比べると… ってね。