『らくごくら』#28 「桂南光独演会」

 
 桂べかこ氏の落語、ってのがどうにも好きではありませんでな。
「落語ってのはこういうもんだと思ってんでしょ?」
 という感じがすると言いますか… 職業としての落語家である事の自負ってがあまり感じられない、噺やその世界への情熱やらも薄く思えて。お客に対する意識の薄さや所作にしても乱暴と言うか雑と言うか、観ていて綺麗だとも上手いとも思えない… ってな印象が強くて考えてみれば10年以上敬遠をしておりまして、今回の放送が無ければ桂南光という名前に変わった事も知らなかったし今後も知る事も無かったであろう、というくらいでありましたが、さて… まずはお弟子さんの
 
 ・桂こごろう「阿弥陀池
 正直、全くノれず。
噺が腹に入っている感じはするものの、個性とか工夫とか気ぃみたいなものが特に感じれない。下手じゃぁないんですけども、と言って姿勢を正して聴こぅって気になれない。別に派手な事をせぇとかそういう気は全く無いんですが、間合いのとり方のせいか演者にも噺にもこれっぽっちもノれない。つるつるっと終わってしまって、今コレを書いていてもなぁんも思い出せないし書く事も浮かばない。収録が今年の7月13日って事ですが、季節感の無い噺で、しかも明治四十年頃の創作そのままの形でやる事は演者にとっての意味はあるかもしれんけど聴く客にとっての意義があるとはとても思えないんですが… だってさぁ、言わば日露戦争後の世相があってこその味の部分を現代でそのままやっても生きるとはとても思えないんですよな… 噺の構造としては「道灌」等と同じ繰り返し系で、似たような噺や似たような聞かせドコロ・見せ場の噺は他にもある中で何故、あえてこの噺にしたのか?ってのもサッパリ解らんし伝わってこないのでノれませんでしたわ…
 
 っと、なんか気分的にダウナーになったトコロでの
 
 ・桂南光「質屋蔵」
 これが、昔と違っていて思わず最後まで聴いてしまう。
正直、声の酷い人って好きじゃないんですしそこは昔よりも加齢の分より酷くなっているんですが、昼の圓蔵師匠のように潰れている訳ではないんで聴ける、ってのも大きいんですが、ちゃんとお客に向いている姿勢といい、昔に比べて所作に無駄も雑さもあまり感じられないものになっていて、ってなっているとは。
 噺は長いものだし人によってはクドイ上方らしいものなんですが、それが浮かないってのは間違い無く腕なんですよ。で、それをひけらかすのではなく、ちゃんと客に見せて伝えようって姿勢の違いでこうも違うものかと。暴言・放言の類が最近になって特に減ったという訳でもない事を思えばこれがどういうお考えの元でのものなのか、どのような心境の変化があったのかは知りませんが、聴いていて嫌な気持ちにならんとですよ。収録日の季節に合わせた怪談風味もありぃの様々な要素の込み入った難しい噺だと思うのですが、聴いてるコチラは最後の落ちまでダレずに楽しませてもらいましたわ。
 
 個人的な、あくまで個人的な好みで言えば面の切り方がちょっと甘いのと人物の演じ分けが甘いのがあまり好みじゃありませんが、それも含めての桂南光ってのでなら敬遠する気はありませんな… とは言え、頭の中では別の噺家さんでのイメージが浮かんだり、次回に待ってましたの林家染二、噺は「愛宕山」ってのの方が嬉しかったりしますが、ここんトコ文章化していないのも含めて結構酷いのを聴いたりしてたんで、独演会に行こうって気にも、寄席でわざわざ観よう!って気にもなりませんが、これを観るまでは【御贔屓ではないが興味はある】って噺家さんが出る落語会なり寄席で出演していたら多分観ない、場合によっては帰ったであろうくらいに嫌いだったのからは変わりました。今の桂南光師匠のお姿は嬉しいものでしたな… と。