『らくごくら』#42 「第9回朝日いつかは名人会」(後編)

 個人的にトークショウで印象に残ったのは、一之輔さんが最初に好きになったという某バンダナの師匠(笑)について
「真似とかしなかった?」
「大学の落研に入るような人間なら必ず通る道」
 と喬太郎師匠が語ったトコで、「真似し易い特徴がある」「TV等のメディアへの露出が多い」というのと多分「理屈立っている」という所からなのかもしれないのだが… 逆にそこが気に入らない、受け付けないって人というのはいないものなのだろうか? 勿論、談志師匠のやられてきた事というのも落語の歴史に於いては無視出来るものではないし特に大学にまで入る人で落語が好きで演るくらいになると
「好き嫌いは兎も角、一度は通る道」
 というのならばまだしも、さながら麻疹のよう(笑)な喬太郎師匠の言い方には一之輔さんや喬太郎師匠のように理で詰めて立てていくような人ならではのものなのかなぁ… っと思わなくもなし。
 それに比べると朝太さんの、さながら仙台四郎さんのような特に何をしているというワケでもないのにあの柔らかい笑顔と雰囲気と、師匠の故・志ん朝が自分の体力が無いからわざわざ録音を許してくれた「道灌」のカセットテープを無くしてしまうという鷹揚さ(?)との対比となっていたんではないでしょうか。
 
 で、「錦の袈裟」ですが… 喬太郎師匠も
与太郎噺であり、廓噺であり、艶笑噺である。オウム返しの部分もあり、ワイワイガヤガヤの側面も持っている。」
 と書かれています*1が、何て言うんでしょうか… 色々な噺が展開される形式だけに喬太郎師匠の得意な所とあまり得意とはしていなさげな所が出てたような気がしなくもありません。マクラから細かいクスグリや引いて引っくり混ぜっ返してってのや、
「十一人いる… 萩尾望都だね」
 ってのや先の「鈴ヶ森」と「火焔太鼓」をチョイと入れてみたり、という理で立つ部分を技術でキチンと見せて乗せてくれるし下品になるかもしれない噺を言葉を巧く言い換えや置き換えをし細部のディティールも一言二言の理屈を加える事で無理が減っているし何よりも師匠ならではのサービス精神といい楽しかったのですが、江戸落語与太郎としては確かに女房と所帯を持っている珍しいタイプの与太郎とは言ってもちょっと喬太郎師匠自身の理性の色の分だけあんまり与太郎とは見えないような… とか、野郎同士の所と比べると女性の場面がもひとつ活きっか艶が薄めにしたのは喬太郎師匠の好みとしても全編野郎どものドタバタでノリノリだった「花見の仇討ち」等と比べると喬太郎師匠らしい1つ1つのデティールの辻褄は合ってはいるものの、細部の筋が通っている分、例えば「何故にオカミさんが与太郎と結婚したのか?」という部分はどうも足りないように思えたり、当等、ちょっと意地悪な見方だとは思うんですけども、私はチョイと全体のバランスが悪いと感じてしまいましたが… まぁ贅沢な物言いですわな。そこらの理を立てずにそういうもんだとつら〜っとやられたら多分物足りなく思うんだろうし全部が全部何から何まで理詰めで無理なく合点がいくように仕立て直されてもそれはそれで味気ないでしょうし勝手な事を言っていると自分でも思うんですけども、それでも喬太郎師匠なら… っと、まぁTVで観てるだけなのに勝手な事を思いましたよ、っと。
 
 
 
 次回#43は「三代目『林家染二』襲名十周年記念 染二未来十八番」(2008年3月7日 天満天神繁昌亭)より林家染二「宿替え」と「蛸芝居」の二席。この未来十八番は本当は観に行きたくて行きたくて仕方無かったんだけど仕事と財布の都合で泣く泣く断念したものだけに、これまた楽しみでありますわ…