田舎に住むという事。

 
 今晩、大垣フォーラムホテルで行われた三遊亭楽太郎の落語ディナーショー、楽太郎プロデュースの長寿メニューの弁当だかでの食事の後で、弟子の一席と三味線の後でのトリの一席にとかけた噺が「禁酒番屋」… 母などは素直に楽しんだようではあるものの、正直言って私には一万三千円値打ちがある会だとはとても思えない。1万チョイの金があったら大阪で落語を聴いてホテルに泊まって夕朝食くらい充分に出るじゃん、ってのもあるが、何より寄席のようなバラエティさも無いし当人の落語は一席のみで特にそれ以外の事をするでもなし。これがもし『笑点』での知名度が無かったらとても成立するとは思えない内容じゃね?、って以前にまず
「食事の後でションベンを飲む落語をするかねぇ?」
 と思わなくもなし。
そりゃまぁ普段生で落語を聴く機会の無い地方でどんな噺をすりゃぁいいのか?ったら難しいとは思うし、「文七元結」とか暗い噺をトリにされても困るとは思うがそれにしたってなぁ… なぁんか、
「どうせ田舎の客なんかションベンだ何だのシモネタの中ネタを一席やっときゃいいだろ?」
 って思ったりもしたんじゃねぇの? と考えたり、
「いやいや客層に合わせたのかもしれんが… 」
 とか、まぁスッキリしないのが田舎住まいの辛いトコで。
 
 何せそもそも、まず生で落語を聴くという機会が殆ど無い。機会が無い分、TV等で放送されている落語でもわざわざ聴こうと思っても地上波では番組そのものが殆ど無いし、たまにやっている番組の出来もバラバラ*1、っとなると、田舎の普通の人がわざわざネットやラジオやCDやDVDで落語を聴きまくってまくって臨むって事もまず無く、そうすると落語に限らない他の生の舞台やショウを見慣れていない人にとっては高座の出来がどうかという事よりも、TV等で知っている人が生で観れたという事を求めてそれが適えられたらまず満足って客が殆どになる… 今でもある程度は「NHK紅白歌合戦出場」がステイタス、地方での営業での重要な要素になるのはそういう文化格差構造であって、いくらでも娯楽の選択肢がある東京や大阪のような都市とその近隣以外の地域って多少の誤差はあるにしてもそういうものになっているんですよな。
 
 で、
 
 それが興行である以上は客を呼べる事がまず第一で、演者の芸としての出来や腕は二の次になる。いい例が先日真打になった某師だが、ハッキリ言って聴けたもんじゃなく彼よりも巧い二つ目はいくらでもいるんだけど、じゃぁ客を呼べるのはどっちか?ったら地方じゃぁまず間違いなく
「TV等で有名な人だから」
 って事で某師になる。実際には彼自身よりも親の名前や経歴、裏方の営業力の違いの結果だけなんだけど、判断材料があまり無い地方に於いては得てしてそうなってしまう事は珍しくとも何ともない。
 ここで怖いのが、そんな腕も芸も無い某師がその興行で初めて生で観た落語の基準になっちゃうんですよ。しかも、
「TV等で有名な人だから」
 というのを理由・根拠にしての優位、上位、高い評価のものとして。
その基準を元に駄目、つまらない、違う、っとされてしまう事だってあるんですよ… 何せ、知らないんだから。数を見れれば何れそれが解る事もある、が、それは絶対じゃぁないんですよな…
 
 そんでね、
 
 そういう客層を相手に腕のある落語家さんが本気で、真剣に己の芸事を全うすれば違うのじゃないのか? と言えばナカナカそうはならんワケですよ。これが実に嫌な話なんですが
「本気で本物で真剣だからこそ、お客が理解出来ないんでお客の受けが悪くなる」
 って事はあるんです。これはまぁ田舎に限った話じゃないし、
「手を抜いても解りゃしない」
 ってのとはまた別な話としてね。
 
 元々芸事ってのの、特に伝統芸能になれば

  • 「場」として「正解」であり「芸」としても「正しい」。
  • 「場」として「正解」であっても「芸」としては「間違い」。
  • 「場」として「間違い」であっても「芸」としては「正しい」。
  • 「場」として「間違い」であり「芸」としても「間違い」。

 っと簡単に分けてもこうなるんだけど、実はコレ、面白いかどうかともまた別なんですよな… だ・け・ど、客に素養が無いと「場」も「芸」も解らない。でも、素養があればまず、そこを観る楽しみもある。そこを「学」と思うんですけども… って、えらく話がとっ散らかったけど、こんな事をクダクダと考えざるを得ないのも田舎に住むって事なんですよな。嫌なら都会に行くか、スッパリそういうものだと諦めるなり二度と関わらないようにした方が精神衛生としてはとてもよろしいんだが… だが… だが…
 

*1:まぁこれは芸事だから仕方無い部分もあるけれど。