炎上風景に思う「老い」についてダラダラと書くだけの特にオチの無い雑記。

 
 ネタ元は

 
「横澤彪のチャンネルGメン69」
 −『国分太一くん、箸は右手で持とうよ』
 

 
 横澤彪、という名前にピンとくるのは多分30代以降かな?と思う。そう、『笑ってる場合ですよ!』、『森田一義アワー笑っていいとも!』 、『オレたちひょうきん族』、『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』のプロデューサーだった御方であるがフジテレビを退社した後に吉本興業に入るもまぁ世間的な話題からは遠くなったと申しますか、今回の炎上が無ければスッカリ忘れていた御方でもあられるのですが…
 
 炎上そのものについては既に色々なエントリーになっていて
 

 
 ・裏[4k](旧称 100SHIKE)
 −『近年まれに見る美しい炎上』
 

 か

 
 ・切込隊長BLOG(ブログ)〜不滅の俺様キングダム〜
 −『左利き差別「炎上」に見る書き手と読み手の美しい距離感』
 

 を読んで頂ければ充分だろうと思います。
「箸は右手で持つもの。そういう躾をきっちり受けてきたオレのような世代の者には、左手で食べるのはすごく違和感があるんだよな。」
 ってのがまるで国分氏の親に躾がなってないような書き方や、今回の炎上の一番の燃料の
「左手は ケツを拭く手だ 箸持つな」 
 ってのも酷い文章だと思うんですけどまぁ横澤氏は言葉のプロではない方だし、平仮名など日本の文化やマナーは右利きを基本、当然として成立しているのは事実でもあるしなぁ… でもまぁこういう書き方はいかにも不用意だし不遜、思い上がりととられてもしゃぁねぇよなぁ… と、障害者ではあるものの右利きの私としてはそんな程度の事ぐらいしか思い付かず前掲の方々のような優れた事は書けなかったんでボンヤリ眺めてくつもりだったんですが、この炎上を受けての釈明のつもりと思われる横澤氏の記事『国分太一くん、オレも左利きなんだ』が、アクセス稼ぎの為の燃料投下ではないのならもぅ老いとしか言い様が無い有様で、こういう有様を見ると我が身の将来についての不安になりましてなぁ…
 
 いちいち引っ掛かってもしゃぁないんだけどやっぱり最後の
「今回はそんなことが念頭にあったので、つい言葉に勢いがついてしまったのかもしれない。」
 ってのが全てを現していますよな。
どのように思っていようと、それをどう表現しようとそれは当人の自由。世代の違いとしてこういう意見があったってそれはそれで自然だとは思いますが、始めっから個人の美意識での話ならそもそもあんな文章にはならないしこんなにコジれてもいない。これが横澤氏がその名を成した80年代、40代の頃なら逆に毅然と挑発するか、それとも鷹揚ってポーズを決めて無かった事としてスルーしていたであろうと思うとこの対応って結局他人に文化やマナーをとしたのも所詮その時の気分程度でしかなくしかもそれは自分にとってはどうでもいい事柄に過ぎない、と投げちゃうしか出来なかったのは私には「老い」としか見えんのですよ。老獪さの欠片も無い、ただの「老い」。
 グダグダ散らかった言い訳を並べずに居直るかスッパリ謝罪してしまった方が余程マシなのに… と思うのは正論なんですが、この炎上があっても依然準備とか考慮とか配慮無しのまま… バックナンバーをチラっと漁ってみたけど今回と同程度の迂闊っか不用意な物言いの記事って少なくないよこの御方… ってのは普通は厚顔無恥だ逃げだのと評するべきなんでしょうがここまで何の衒いも無く完全に投げてしまった己を平然と晒してしまえるのはもぅ「老い」でしょうて。若者ならとてもこうはいかないし、中年でもまず耐えられない。で、その「老い」ってのが、我が身の将来についての不安にさせましてなぁ…
 
 意地も見栄も「張る」ものだし、そうでなければ意地は「通す」、見栄は「きる」、とあるように 自分自身の行いや言動に向き合うにも、他者や結果や情況に向き合い決定をするのには体力や気力も必要だし、それをその場だけのものでなく個人としての統一性の為に維持していくにもやはり体力と気力を必要とするもの。以前にも同じような事を書いていて自分でもアレですがオッサン、オバサンを批判する若人が何時の間にか若者を批判するオッサン、オバサンになっているってのは特に珍しかないでしょ? 自分はそうはなりたくはない、と思っていても気力、体力で「切って」「通して」「張って」る事はやがて無理が来るんですよな… では気力、体力ではなくみっともない、いじましい、卑しい、情けない事にならない状態を維持していくか? ってのがこの数年の自分にとっては凄く気になってるんですよね… 私も、なるべくならカッコイイ爺になりたいんですけど、なりたいと思うだけで何もしなかったら駄目っしょ? それだけでは人が生きてゆく事の道標にはならないし、ましてこれからの死にゆく道に「ああなりたい」と思う姿が例え「ああはなりたくない」の裏返しででもあるんだったら、コレという答えが出なくても考えるべきではないかなぁ… っと思うんですよね。
 
「四十にして惑わず。五十にして天命を知る。 六十にして耳従う*1。 七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず*2。」というのが孔子自身が書き残したものではなく孔子とその弟子たちの間で交わされた言葉で、それが収録されているのは孔子の死後に弟子達がまとめた『論語』で今もまだ否定的な意味や事例ではなく残っているのを思うと、それを成すのは非常に難しい事で理想論のようなもの、人としてそうありたいものである、って事かもしれんって思うと私は暗然とした気持ちになりますが、そこで「人間なんてそんなもの」ってしたらそれまで、ですもんなぁ…
 

*1:何を言われても心が乱されるような事はなくなった、という意味。

*2:心のままに何をしようとも、人としての道を外れないようになった、という意味。