「ナショナルとインターナショナル」(映画雑記)

USA-P2006-03-13


『Tom-Yam-Goon (2005)』、日本での公開も決まっているそうなんだがさて…
「字幕とかどうすんべぇなぁ?」
 っと思うUSA-Pであります。

タイ、通極。英語と3つの言葉が入り混じりつつも、別の言葉とは交わらぬ
し理解出来ないししようともしない、っというこの作品においての理想は
タイ語 → 日本語吹替え、英語&中国語(フォント違いの字幕)」
 ってのが一番のベストか、そうでなければ思い切って
タイ語と英語か中国語のどちらかのみ字幕付」
 というぐらいにした方が本作には合っているように思うのだが、まぁ流石に
そうはいかないだろうしな… とは言え、皆、均一に字幕、若しくは吹替え、
ってなったら確実に作品としてのテーマが歪むと思うのだが…
 
 っと、DVDを観直しながら思うんですよね。
 
 同じ人間でありながらも言語によるコミュニケーションが取れない状態、
ってのはアクションに限らずコメディやドラマでも使われてきたテなワケで
すが、今まではどこかしらで関わろうとする部分が必ずあった筈、ですよ。
解らないけど、解らないなりに… って。それが出来ない事がドラマにもなり
ギャグにもなる、って。でも、そうではない、っとなった時にどう対応するの
か? ったら、もぅしない事しか手段は無いんじゃぁないのかなぁ…
 
 そういう意味で『Tom-Yam-Goon』、字幕無しで観た事での発見ってのかな、
考える事が出来た作品だと思ったんですが、今後はこういうテイストの作品
って増えるんでしょうかのぅ…

 伊福部昭氏は師チェレブーニン
「ナショナルであることがインターナショナルなのだ」
 という御言葉を頂いたそうだが…
左翼運動華やかりし頃ではなく今ならばまた別の言葉に、違う意味が入るか
とは思うけれども、闇雲な自国礼賛、現体制肯定の為のプロパガンダではない
自国を見据えた映画なり文学なり、そういう作品が増えていった時に私は…
 っとボンヤリと思う月曜日。
 
 安易な閉塞をしてのナショナリズムなんて意味が無い。海外崇拝、海外礼賛
としてのインターナショナルだなんて最悪だ。
 でも、そうでない道、位置にあり続けるのは、神を持たぬ私が得るのはこの
国の歴史なんだろうか? 自然なのだろうか? よぉ解らん。