華氏四五一度。

 
 ネットに限らず人から質問された時に
「そんなんまず自分でGoogleとかで調べてから聞いてくれよ」
 って気分がある。
自身がまず、どういう事を尋ねたいのか? どうすればその当人にとっての回答となるのか? ってのが解っていないとセラピスト宜しく質問者とその質問に対しての分析からしなきゃぁならん手間が面倒くさいから(笑)、ってのからなんだけど、よく考えてみるに単純な事象や最近の事件なりを調べるのにネットと検索エンジンは有効だとは思うものの、そういう検討や蓄積のされていない「情報」… 特にネット以前のモノについてはおそろしく頼りない、という事実に不安というか危惧のようなものを抱いたのは何時頃なのか自分でもよぉ解らんのだが、日に日にそういう気分は強まりこそすれ弱まる事が無いんですよな。
 
 ネットの普及以降、HPや日記やBBSのログ、そしてブログでデジタルデータとして残っているものの中から調べるのは手間ではあるが残っている以上はまだ調べようがあるし、アーカイブとしては有効だろう。
 しかし、
ネット以前の日記や手紙、雑誌や書籍で記録され、検討されて蓄積された時代の空気や状況、そしてデータを漁って得られるモノはネットには無い。確かに断片的な「情報」ならば散見されるものの、しかしそれは、ネットへとUPする人の選択・趣味・嗜好によるものであり、マスのパイが広いのならまだ比較も検証も可能なのだが、それ自体が小さかったらセレクトした人のものでしかなく、ましてそれが自己検証無き権威への妄信、追従だったとしてもネットではそれ自体で、それが検証、比較の材料や資料そのものになってしまう傾向って無いですかね?
 更に、ネットに残されもしないものならば、存在そのものも無いものってなっているんじゃぁないのか?
 
 で。
 
 そういう状況下に於いて、現在収集出来た「情報」を元に語るのも評するのもそれは1つの形としては有効なんだろうが、あくまでもそれは現在、同時代性での元である、という認識の上で行われていなければならず、そこでの価値、意味、意義と、その時代に出た本来の価値、意味、意義という歴史とのリンクをも考えて、時に双方を比較し、検討する作業があってこそ…
 とは思うのだが…
そして、そうやった上でしか自分の立ち位置も言葉も無いんじゃぁないのかなぁ… って私は思うんですよ。
 
 例えば、
悪魔のいけにえ』という映画、ホラーやサスペンス映画のベストなんたらを選出される時には必ず高位置にランキングされるけれど、私には凄く疑問なんですよ。ランクインするのはいいんです。しかし、映画としてそんなに出来がいいものか? と言えば違うし、前・同・後時代の作品より優れてるのか? と言えば違う。『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』や『鮮血の美学』等からの引用もあるし、残酷描写や雰囲気は『アンダルシアの犬』にも及ばない。その表現自体にしてもグランギニョールの影響もあるだろうし、それこそ太平洋戦争やベトナム戦争での映像とてその影響下にあるだろう… っと、あの時代の、当時のアメリカの空気を映した映画の1つ、って視点で見ても『イージー・ライダー』等が既にあってフォークロアインスパイヤされたものだって一杯あった筈でしょ? そういう他方向からの視点で観てどうなのよ? って。
 ナルホド、当時としてはショッキングだったろうし、今観ても主演女優への無茶は今そうそう出来る事ではないが、しかし、アメリカ人が評価するのは兎も角として、そうではない人々が、まして現在持ち上げる人は一体どれだけの数の映画を観ていて、どれだけ比較、検証をした末でそれを行っているのか? そうするだけの根拠なり理由として、権威として設定された「言葉」や「資料」ってゲタを履かせてはいないのだろうか?
 … っと、これは『悪魔のいけにえ』に限って書いてみたけど、別にこういうのって映画に限らず、音楽やコミック、小説といった娯楽に限らず何事にも私は今、ネットを元にした評や感想や権威に疑問を感じるんですよね…
 
 ついでに言えば、
共有化出来た数が多いから是、としてる風潮もどうかなぁ… っと思うし、その数が少なくても自分と共有出来たから是、としてるのもどうかなぁ… って思うんですよ。閉塞してるのも、検証無しなのも一緒じゃん、って。
 勿論、自分が是としたから是、正義、最高! ってだけなのも困りますがそれは他人と共有したから、権威が評価してるから、ってのと無思考って点でも同じじゃん、っとな。
 
 そもそも性癖、嗜好の共有化、共感が出来るか(出来たか)否か? が作品の質や出来そのものではない筈なのに… ネットという拡散する事を前提にしたツールで検証や検討よりもむしろそれらが行われてるように見える、感じるんだけども、ましてその元となるのがネット上での「情報」ってのはどうなんだろう? っとな。
 
 かつてネットが無かった時代、自身がコミュニケートするには直にか電話か手紙かでしか出来なかったし、その範囲も狭かった。しかし、世界に、年齢も性別も全てネットというツールでフラットにアクセス出来るようになったというのに、ネットでの「情報」っか環境がベースになっている物事が、事情が、そういう情報が、これからの時代に、世代に遺されていくのは、実は凄く怖いっか変というか、歪んだものになっていくんじゃぁないのかな… 今でもある部分においては既に断絶が起こっているというのに…
 
 …と、いうので思い出すのが

華氏451度 (ハヤカワ文庫 NV 106)

華氏451度 (ハヤカワ文庫 NV 106)

 語り部として、ただあるがままを語り続け、そして伝えていくという事の大事さ、大切さは、同じ管理された「世界」であっても、弾圧ではなく自由に選択されるネット時代にこそ知られるべきだと思うんだけどなぁ…
 まして弾圧もまた秩序、ルールなのに対して、責任も自覚も無い状態での自由ってのは、ねぇ… 性差や貧富等の差異がフラットになるのはいいが、でろでろに過剰な自意識や思い込みや捏造やいい加減な伝聞とかだけが溶け合った末ってどうなるんだろう? しかも、それが「歴史」「資料」になるんだとしたら?
 
 だから本当は、ネット以前の「歴史」や「資料」や「言葉」や「雰囲気」って「情報」を、もっと色々な年齢層の方々に遺してもらいたいんですよ。そしてその言葉は後付や権威等で補完、補強されたものではなく、まずその人の内なる原始な喜びや感動やらで紡がれていくべきではないのだろうか…
 
 ってのは、理想に過ぎるのかなぁ。それともロマンチスト過ぎるのかな。
 よく解らん。