「どうしたものやら」(『KILL BILL』評?)

 観る前、
タランティーノの自己満足の1つの到達点映画だろう」
 って思っていたのは昨日の日記にも滲み出ているけど、
昨日は仕事が早く終わって帰れたので妻と『KILL BILL』を
観に行ったのだが、観終え一夜明けた今も、この映画を
どう評価していいものやら解らない。こういう感覚ってば
レニングラードカウボーイズ・ゴー・アメリカ』以来
なんだけど… まぁ前編だけでアレコレ書くのもどうかと
は思うがとりあえず書いてみる事にする。

 この映画、評価が分かれてる最大の理由は残虐描写では
なく、映画自体が実にエンターテイメント的でこれ迄の
タランティーノ(以下、タラ公)作品と比べると音楽の
使うタイミングやテンポなど普通の映画だから、かえって
「何だこりゃ?」
 と言う人が多いのだと思う。
私も少々誤解してたんだが、タラ公ってマイナー・マイナー
のどインディ派… 映画監督で言えばロメロとか… と
思ってたんよね。
「1本の『映画』という作品」
 ってのを作る事よりも、
「1つのシーンや『間』や『味』」
 ってのを作るのが好きだと思っていたんよ、あの時系列を
グチャグチャにしたりとか食事とか会話をダラダラさせるの
とかを観てて。
 でも『KILL BILL』には若干の時系列イジリはあるけどこれ
迄ほどではないし、ダラダラとしたシーンはほぼ無い。バスト
アップショットも今までと比較してみればあまり使われてない
のも含め、そういう意味でも70年代の日本や香港映画等への
オマージュ、リスペクトと言ってもいい。

 しかし…

 この過剰さは一体何?
OPのSBロゴをわざわざ汚いフイルムと音声のを使っている
一方で異常なまでに金をかけてチープに東京の町のミニチュア
を作り込むかと思えば、どう勉強したって変な発音にしかなら
ないのを承知でユマやリューシーらに日本語を喋らせたり…
呆れたのが確実に字幕が出る事を前提に、その位置を想定
(もしかしたら位置だけでなくフォントも指定してそう… )
した画面構成してるのとかに比べたら手足首がぶっ飛び、血飛沫
どころか血噴水の残虐シーンなんかは瑣末っか、むしろカワイイ
もんなんよ。
(続く)