余人が勝手に妄想して書く雑記。

 
フィギュアスケーターとしての彼女は正直好みではない。速いとは思うし性格だとは思うけれども子供の頃からブルース・リージャッキー・チェンよか断然ジェット・リーだった私からすれば才能は確かにあるけれども所謂努力の延長線上から超えるものが感じられないとどうにもこぅ好みとは言い難いんですが… しかしまぁ、思うのですよ。
「もし彼女があの才能を持ったまま他の国に生まれていたのならば」
 と。
 
結果として金メダルは得られなかったかもしれないけれど、一人の女の子、女性としての幸せはあったように思えるんだが… というのは、私が日本にいるから思えるだけ、なのかもしれないけれども、それでも、それでも、如何に自業自得だ自己責任だと言ってもそうしなければ生きてこれなかった国に生まれてしまった事の悲劇というか喜劇といか、そういったものを感じなくもなくてねぇ…
 
と言うか、サッカーのようにスポンサー枠でってのも駄目でプロとしてその道では食っていけないからこそ、時間をかけてリハビリと老化を鑑みて自分に出来る事に徹して得た結果があのエキシビジョンの風景といい、自国以外で尊敬も敬意も得られないばかりかおそらくは軽蔑と敬遠しかされていない様、というのは不遇に過ぎるように思えるんですよね… 1つの希望として、前提としての才能は勿論あるけれども努力の道の先の可能性としての彼女、というのはある人々にとっては希望な筈で。勿論国際競技大会って舞台ではそれだけでは駄目なんだけども、そのにまで至る道としてはとても見え易い道だったのではないんだろうか? 夢は叶わなかったかもしれないが、その道の光に救われていた人も、救われている人もいたんじゃぁないのかと。
 
 
 
まぁ私とて、何者でも何物でもなく”勝つ”為に全てを捧げそして”勝った”事で『物語』になってしまった彼女の方が素敵だと思ったけれども、おそらくはルール改正でほぼ勝てない事は解っていても尚、戦う事でしか食っていけない彼女の事を思うと… そう、”勝った”彼女にはいくつもの道がある。プロは勿論、指導者としての道も、レポーターやコメンテイターとしての道も、タレントとしての道もあるし、当然協議からは離れての一人の女性として静かに暮らすという道だってある。が。一方の彼女にはそういう道が、ほぼ無いように見えると、ね…
 
 

私にとっての勝手なイメージなんだけど、”孤高の女王”は誰一人近づけない高みに唯一人立つ孤独と恐怖を踏み殺して尚凛として有るべきであって、嫌われ者のボッチじゃぁないんですよな。多くは彼女が育った国の所為、というのを差っ引いても、一人の子供が辿る道としてはあまりに… と、思わないでもないんですよね… まぁ日本も大概だとは思うけど、それこそ伊藤みどりからの『物語』のように彼女がかの国でのフィギュアスケートという競技の『物語』になれればいいんだけどね… っと。まぁ、ど素人で余人の勝手な妄想です、ハイ。