個人的な印象というか雑感の羅列。

 
元々ハリウッド映画が好きな筈で週一でUSA Boxofficeはチェックしテレビ東京の『SHOWBIZ COUNTDOWN』を観つつYoutubeで予告編等を観てはいるんだけども、どうにもこぅ最近のハリウッド映画の、特に上位にランキングされる作品の傾向にあまり興味をそそられないというか食傷気味になっていると言うか…
 
 以下はすごく個人的な決め付けでツッコミがあれば有難いんですけどね、
 
 振り返ってみるにブッシュ前大統領時代の頃のヒット作品ん時には
「自分(若しくは我々)とは何者なのか?」
 がテーマとか題材になってる作品が多かったように思うんですよ。
昔からあるっちゃぁあるんですけどそこはゼロ年代らしく絶対的な善悪という概念なり軸が建て辛いからこそ、自己以外の他者という意味での【社会】ってのの定義になるけどドラマとして対峙する為には自己と【社会】の関係性の確認と検証作業をせにゃならん。だけどまさにゼロ年代だからこそ絶対的な概念なり軸が存在しないから作業そのものがドラマになってて。まぁドラマになる以上は最終的な結果が成功か失敗かではなく肯定か否定か、甘受か拒否か、ってなりがちになるのはしょうがないし、何れが対峙すべき存在なり思想なり物なり者になるのかは置いておいても対峙である以上は「自己」と「それ以外(【社会】)」であったと思うんですよ。
 
 オバマ現大統領になってからのハリウッドのヒット作品って、
「本当の自分は何者なのか?」
 ってのが多いような気がしましての…
コレ、自省に見えるけど「本当の自分」がゴール、正解として設定されているから凄く自己中っか狭い感じって言いますか、物凄く乱暴な言い方をすればアーサー王の聖杯探索で「本当の自分」って聖杯が無い状態の否定若しくは拒否という立志からして自己中なんだから探索における出会いも別れも危難も試練も、そして聖杯そのものも自分が勝手に設定しているだけにしか過ぎない筈なのにそれを手に出来たから皆に祝福されるってのも凄く身勝手っか狭いと言うか… 他者が自己肯定の為の存在にしか過ぎないから大抵の場合、その祝福は愛や友情や勝利や成功といったもので現すしか無くて、それ故にツッコミがし辛いけれど、例えでの聖杯って事でフト
「馬上から失礼する。私はアーサー、英国の王である」
「馬なんかいないじゃないか。ココナッツ鳴らしてるだけじゃん」
「ええぇい、私はアーサー、英国の王だぞ!」
「誰がそれを証明するんだい?」
 と『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』の冒頭の農民みたいな気分になるんですよね…
 
 自分がそれを受け入れ(認証)し他者が承認(若しくは支持)をしたから、ってのはどうなのよ? そもそもが現状の否定っか拒否からの筈なのに聖杯となる「本当の自分」って大抵の場合その出発地点である現状の秩序と言うか価値観の物ってのはどうなの? 否定っか拒否をしたからこその、ってしている筈なのに?
 
「その聖杯は本物か偽物か」
「それを手にする資格があるのか無いのか」
 って以前、
「聖杯が存在するのかどうか?」
「あるとするのならばお前は何をもってそれを聖杯とするのか?」
「そもそも聖杯は本当に必要なのか?」
 って作品を経てきてるじゃぁないですか。折角価値観の多様性っか多角化をもった時代になったにも関わらず。個人主義から(実際の、本物の、かどうかは別にして社会の最小構成単位である)家族への回帰の後がこれなの? って思ってしまうんですけどね… 『Napoleon Dynamaite (2004)』と並ぶだけの作品とはまだ出会ってないですなぁ私…
 
 
 
 …
 
 
 … うん、なんかアタマおかしいかも自分。