戯言。

  
 しかし日本のタレントの場合、ライブやCDのセールスといった真っ当な収入よりもカラオケの著作権料の方がずっと多いワケで。そうなれば今、カラオケを利用する大衆に指示されてこそのメジャー、でなければ代替されてしまうだけの存在、層、役割に多くを求めるのも酷ではないかなぁ…
 
 とか、
 
 いくら己の魂を削り、血反吐を吐きながら紡いだものが伝わらない孤独、でさえ商品として消費されてゆく事への絶望や閉塞、消費される存在であるが故に常に代替される恐怖、などを感じない表現者などいるのだろうか?
 また、
憧れられ、羨ましがられ、妬まれ、憎まれさえもする地位と名声と業績と金を得ながらもノイローゼになり、酒やドラッグに逃げ、中には自殺までする者とている世界を…
 
 とか、
 
 いくら真に迫ったところで、迫り方の深さも含めてその表現がつまらない、ありきたりにしかならない場合というのもあるんではないかと思われ。意外に真というのは、人間の産まれ方が変わっていない以上、あまり変化も無いし、真故にシンプルでもある。それを人の心を揺さぶるような表現にまで昇華するのは努力と才能しか無いし、だからこそ誰にでも出来るものではない選ばれた者となるんではないのかなぁ… それが言葉であるのならば、詩や小説といったもの(文学もアリ、かな)、舞台や演劇や映画とも張り合い、渡り合うだけの物を表現者が持ち合わせていないと…
 
 とか、
 
 何故に固執出来るのか? 何故それを良しとしているのかという自己検証も必要なんじゃなかね?
 
 とか、
 
 どんなに真似をしても日本じゃぁヒップホップは綺麗に棚に並べられ、キチンと洗濯されたファッションにしかならないんじゃなかろか? 楽器なぞとても買えず、住む場すら危うく、ボロクズでもそれくらいしか着るものが無く、洗濯なぞ出来ない程に貧乏な中で精一杯、それだからこそスタイルとしてキメようとしているアメリカの厳しさに比べれば、日本という豊かな… そう、趣味か病気でしか餓死できない程に豊かなこの日本で語られるべき言葉のリアリティ、迫力、ナドナドには自ずと限界は無くとも壁はあるんではないんだろうか?
 
 とか、とか、とか、
 
 まぁ色々と思わないでもなかったものの、しかしまぁ私としては
「消費される対象としてのマスの拡大であっても、それ故に世に出る門戸も広くなった筈だし、選択肢も情報も増えたって利点もあるんだろうし、時代っか時間経過による洗練も淘汰だってあった上での未来ってのを楽しみにするのもアリなんじゃぁないの? っと思うですよ。そう、かつてジャズが、ロックが、パンクが、フォークが、そうであったように… 」
 って思うですよcinematic君
 不甲斐無いとかタリィとかダセェとかウゼェとかクセェって気分には同意だけど(笑)、でも、私の中では社会と差別と絶望と貧困と恐怖ナドへの怒りのギャングスタラップでさえMTV系で消費されるアメリカの悲壮を思えば… って思わないでもないんよね… って思えるのは歳のせいかもしれんから、一概にネガティヴな事ばかりでもないかと。
 
 
 
 ま、
10代、20代の頃の私がこういう余裕っか落ち着きある言い回し言われたらムカついてたけどね(笑)、しかし説教臭くなるのは年齢だけじゃぁないぜ〜