福岡少女軟禁。

 
 <福岡少女軟禁>子供の障害案じる親の複雑な感情
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051207-00000031-mai-soci
 

 私が幼少の頃に顔面をはじめとして主に上半身に大火傷を負った時、祖母は遠方の親類縁者に
「USA-Pは死んだ」
 っと言っていた。
「そんなのおかしい。葬式をしたのか?」
 っと問い詰められると
「寝たきりでもぅ廃人になってる」
 っと言っていた、ってのを祖母の葬式の時に聞かされるわ、家に祖母や母の来客があるとお客が帰るまで家から追い出されていたりした身として、決して他人事とは言えないニュースである。まぁ介護も養護も必要無い私からすれば、この御家族の抱えであろう『事』の重さも苦しさも想像がまるでつかないのだが… この御家庭、御家族にこういう形だったからこその「助け」が、これから行われて欲しいとは思うが…
 
 色々な正論、御尤もな御意見、ってのはアチコチで既に出ているけれども… しかし、プライバシー等の概念や交通網や施設も込みでの「公共」が乏しく、人の数や出入りの少ないという意味も込みでの「地方」で、『障害者でいる事』『障害者という身内がいるという事』って事実、現実、情況に対して正論や御意見が一体どれくらいの意味があるか? それで何かなるのか? って点でどちらも「特に無い」としか言い様がない。
 
「『障害も個性』と言える社会になれば、こんな悲惨なことも起きなかったのではないか」
 と言うのは理想論であり、しかも強者の弁でしかない。
自分自身や自分の子供がいつ事故や事件や犯罪で障害者になるかもしれない、という、日々のニュースを観ていれば決して低いとは言えぬ可能性程度の認識すら無い人間が何を言おうと思慮の欠いた傲慢なものにしかならないし、そんな当事者でもない野次馬の不遜な、思い上がった語りなんぞで世の中がどうこうなるものでもない。あえて言うならば、今よりも余計に「(障害による)発達の遅れが恥ずかしかった」という気持ちを増強させこそすれ、弱めるという事は、無い。
 
 助けてくれる者がいるのならば、助かっていた。
どれ程打ちのめされようと、石持て嘲笑されてもなお自ら立ち上がる程の強者ならこうはならない。弱者なればこそ、こうなるしかなかったし、弱者だからこそ、呑気な野次馬達に日々の自分達の幸せの糧にと消費されるしかないが、一体誰が望んで弱者であろうとするものか。まして、この世の中は生まれながらの強者ばかりでもなければ常勝の者達ばかりでも無いというのに、ね…