溝と橋。

 
 コメントだと長過ぎるし自分でも整理ついてない部分もあるのでここに書く。
 
 結局ツールが何であろうがツールはツールでしかなく、所詮はそれを用いる人次第ではないのかなぁ… とか。コミュニケーションが所詮内輪のコミュニティ内での事でしかない、ってのはツールそのものだけでなく… っか世代とか性別関係無くね? 野球の話しか出来ないオッサンとか、TVの話しか出来ないネーチャンとか、まぁ色々あるんだけども、彼ら彼女らのコミュニケーション方法は彼ら彼女らにとってのマナー、作法に則ってるワケじゃない。んで、それこそ手法もまた作法、作法もまた手法、ってなってる場合だってあると思うんですけどね… いや、厳密に言わんでも言葉の意味が違うのは承知しているんだけど、でも、結果として同一化してるのに使い分けているつもりの人って多くね?
 まして自己選択のネットで得られたモノが実はローカルルールでしかない場合だってあるんだし… ネットにある情報やそこでのコミュニケーションなんてのもローカルっかその情況や場でのものでしかないし… ってのも込みで、オジサンとしてはコミュニケーションのハードルなんて下がってねぇじゃん、自己補完と自己確認行為の為の他者否定と自己肯定の自分語りをする為に野合しあってるだけなのに一体どんな違いがあるのかと。ツールの利便性、即応性が上がったかもしれないが本質的には自己と他者、情報、思考と嗜好と志向の認識が出来ている人と出来ない人の間にある谷っか大河がある構造自体はそんなに変わってねぇんじゃぁねぇの? っと思うのだけども。
 溝は埋める事が出来るからまだいいが、谷や大河には橋をかけるしかない。ないんだけどその手間も暇も埋める事の比じゃねぇじゃん… っとな。
 単に現状を見てその理由をツールっか環境や情況にしての一般化、ってのはゲーム脳云々と大差無いものとられかねんような気がしましてな… まぁそんな間違いをする人なぞどうでもいいんだろうけど、でもオジサンとしては矢張りそれは個人に帰属している事でしかないんじゃぁないのかなぁ… 一因は一因、だけど、世代にとっての比重っか質っか意味合いの違いはあっても、事それ自体は重要ではないんじゃぁないのかなぁ… っと。
 
 まぁ、そないネットにも信頼も置けないおじさんの戯言です、ハイ。