そりゃまぁ自己愛に満ちた偽悪者も気持ち悪いけど…

 
 遅ればせながら『社会派くんがゆく!』号外を読む。
今回はロンドンのテロについてだったが… 毎回、このクオリティを維持
出来てこそのプロだよなぁ… っと笑いながら思う。
 これを不謹慎だ何だと言う人はハッキリ言って頭が悪い(三沢さん風)。
 でなければ読解力と想像力が欠如している。
これは『スタンダード 反社会学講座』などもで言えるんだけど、当人ら
が事象をネタに昇華するまでに消化している事は文中でも明らかなワケで、
そういうネタに対峙するにもそれなりの思想的根拠やら立脚点やら根拠が
自明でなければならない。
 
 が、
 
 対峙出来るほどの内面が無い人の場合、他者によってしか自己確認行為
が出来ないから自分の好き・嫌いだけで否定や賛成をするだけで終わって
しまうが、それもまぁ「お客さん」、とは言え、よき「お客様」では無い
よなぁ… っと。
 
 いや私も時々解らん事があるんでその時に、テーマやネタに興味がある
ものならば自分が解るまで考えたり調べたりしてますけどね(苦笑)。
 でも、不思議なんですけど、解らない人に限って
「ナンデ、オシエテクレナインダヨ!」
「言ッテクレナキャ、ワカラナイヨ!」
 と、いい年ぶっこいてても言い募るものですが恥かしくないのかねぇ…
 だって、
「ボクは自分で調べたり考えたり出来ない馬鹿です!」
 って言ってるのと同じなのに。
 
 昔はそういう輩をして「半可通」だ「粋じゃない」とか教えてくれる人
がいたらしいんだけど、そんなもんは腐れ全共闘世代が御祭り騒ぎでブッ
壊して後片付けもせずモラトリアムって30年も経てる現在に望んだって
しょうがないワケで、それでも
「過去ログ読め」
Googleで検索しろ」
 という形で人の善性は残っているんだから世の中捨てたもんじゃぁない、
ってな感じで思う程度でもいいんじゃぁなかろか? それ以上を望むのな
らば、自分がまず何をしていくか、ってなるんだし…
 
 とは言え、

不道徳教育講座 (角川文庫)

不道徳教育講座 (角川文庫)

 のあとがきで三島由紀夫
「どんな時代でも無害な悪意は人を微笑ませるものである。」
 って書いてから36年も経過した現在、根拠も無しの曖昧な主観で己を
善と、正として恥じるどころか当然とする輩は増えたように思えるのだが
そんな輩に応じてただ自らを悪、誤とする「だけ」では結局は同じ穴の狢
になってしまうものなので実は難しいんですよな…
 
 しかし…
 
 自らの様々な我見、我執、我欲や悪意やらを自覚していない薄っぺらい
中身でありながら態度も体躯も肥え太った「善意の人」「善人」の醜さを
思えばまだ、偽悪者の方がマシではないかなぁ… っと私は思いますな。
被害者ヅラしたブタのオナニーに付き合うのは願い下げですが、ズリセン
ぶっこいてる輩にはそれらも含めて全部カキノタネ、だから触りたくねぇ
んだよな… ぶよぶよと自意識も肥大してっからすぐ「傷ついた」だの
(でも手間ぇでスッ転んでるだけ)、「疲れた」「もぅいい」とかヌカす
くせに、手前ぇのザーメンを人にぶっかける事だけは一生懸命って最悪だ
よなぁ… 誰がどうこうってワケじゃなくて… いやホントに…
 
 
 
 …とか思った木曜日。
 
 大体、自分で自分を「善人」「正義」って言うヤツなんて信用しない。
そんなヤツぁ馬鹿か考え無しか嘘吐きか詐欺師か墓荒らしで、しかも二流、
三流の、産廃以下の胡乱で御粗末なシロモノなんか信用出来るかっての。
 
 そりゃまぁ自己愛に満ちた偽悪者も気持ち悪いけど… ねぇ?