「歌を忘れたカナリヤは」(時事雑記)

 厳密に言えば日本語の『芸』に相当する意味の英語は無い。
もちっと書くと、日本語の『芸』ってのはスキルやテクニックや努力や昇華も
含んだ多層的な意味合いがあるし、日本人は無意識下であっても芸能に関わる
事に対しての真剣さを、金を払う観客、としてでなく、もっとスピリチュアル
に捉えて要求し、それが日本人の真剣、ガチンコ好きに繋がるのではないか…

 と、オリンピックを見ながら思ったものですが、しかし…

 かつて日本人が支持してきた競技、相撲、野球、そしてプロレスが現在軒並
み凋落傾向にあるのはこの日本人における『芸』ってのを大衆娯楽として見せ
てやる、という姿勢の元に本来は継続し継承される事でされなければならなか
った『芸』の洗練、昇華を怠った結果なのでは無いのかな… と思ったりも。

 時代変化に適合、適応させるのは見世物興行としての基本だけど、それを怠
っているだけでも痛いんだけど、この3つって基本的に観客興行収入ではなく
タニマチやスポンサーや放映権料で成り立ってる世界だから、元々観客を軽視
してきた歴史もあるから… って部分もあるとは思うけど、そもそもの興行の
核っか見世物が見世物である為の『芸』が『芸』として成り立っていなかった
り、外国の方が洗練されていたり派手だったり技術的に上だったとしたら…

 まぁ、付き合う人の「情」か「惰性」「習慣」に縋るしかないけど、でも、
それって基本的には縮小だわなぁ、っと。



 唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
 後の山に棄てましょか
 いえ いえ それはなりませぬ

 唄を忘れた金糸雀
 背戸の小薮に埋めましょか
 いえ いえ それはなりませぬ
 
 唄を忘れた金糸雀
 柳の鞭でぶちましょか
 いえ いえ それはかわいそう

 唄を忘れた金糸雀
 象牙の船に銀の櫂
 月夜の海に浮かべれば
 忘れた唄をおもいだす

 … そんな余裕は、今の世の中には無いし、最早カナリヤに固執しなけりゃ
ならない時代でもない。忘れた歌を思い出す頃、人々からは忘れ去られてる。

 そうならない為に、何もしていない。

 そうはならない、それだけの事もしていない。

 鞭打つ程の情を持つ人も、いつしか捨てて、埋めてゆき…
 そういう危機感を持ってる人ってプロレスにもプロ野球にもどれくらいいる
んでしょうかね?