無題。

 
 会社からの帰宅での電車で真後ろの席のリーマン二人組みがひたすらに五月蝿くて。私が名古屋駅で乗る前から既にいたから金山からとしても岐阜駅まで片割れが降りるまで40分くらい? ず〜っと一方が喋って片割れは適当な相槌を打ってるくらいで途切れる事もなくひたすらに大きめの声で喋る喋る。優先席のエリア、ってのもあるが私は眠いので久々に手持ちのアタッシュケース(金属製・約5kg)でも後ろの席に投げ込んでやろうかと思ったが、片割れが降りると先刻までの五月蝿さが嘘のように静かに携帯を開いてメール打ってるチキチキチキってボタンの音くらいしかしなくなったので暴力に出る必要は無くなったものの… 大垣駅で降りる時に見た其奴、多分私より若い二十代後半か三十はじめくらい小太りさ加減の、平均よりはちょっとだけ背が低いくらいの眼鏡君で五体満足でごくごく普通に何処にでもいそうな奴ではあったのだが、岐阜駅までず〜っと喋っていたのが会社の後輩や同僚や上司や取引先等の悪口と罵倒と自分の自慢だけ、ってのをそんな歳からしててどうなの?と、いささか可哀相にも思えなくもなくて。
 
 他者を非難し罵倒するか自分が如何に優れているかを自分で誇る事でしか自己存在確認が出来ない人ってのは別に昔からいるけれども、同じ事を他人が… まして社内の地位の上の人間がしていたら… 多分其奴だってウゼェしみっともねぇしツマンナイ人間だと思うんでしょうな。同じ事なんだけど。でも、気が付かないのか、そうしてないととどうしようもなく不安に陥ったりするとか何を話していいのか解らないとか、まぁ理由は色々あるんだろうけど、結果としてそうしている自分は認めて許している事の自己矛盾を認識出来なければより自己中毒にならざるを得なくなり、日々そうやって自分が陰で唾棄し嘲笑していた連中とより同じ人間になってゆくだけなんだけどねぇ…
 可笑しいのが「いかに自分が優れているか」の証拠のつもりで披露してるのがたかが会社の中での仕事のやり方とキャバクラでの話ってので、前者は全然一般的でも社会的でも無いしプランニングにケチっけるだけなら大抵の人も出来るけれども代案無しの揚げ足取りして上司だか同僚だかを黙らせたからってそれってどうなん?って思うだけだし。後者に至っては論外だわな。アフターも出来てないようなのに店ん中でのお嬢の営業モードを自分だけがモテてるといくら言い募ったってそりゃまぁお嬢の程度がアンタより上だ、ってだけじゃん… で、それをわざわざ大きな声で3、40分、多分本人としては自分が満足するか疲れるまでず〜っと話していたいんだろうが… なぁんか酸っぱい臭いのする汗まみれのデブが同人ショップで買ったエロ同人誌を広げてフンフンと荒い鼻息をさせ舌舐めずりと「ふもぅ」「ふひぅ」とか呟きやがら読んでいるのと個人的には人としての程度って点であまり大差無いんよね。
 
 其奴の周囲の、親も含めた大人がそういう人間しかいなかった、って訳でもなかろうが、しかしまぁ人が出会える人ってのは基本的には自分の程度を大きく超えるような事はまず無い訳で、だから昔の人は「牛は牛づれ馬は馬づれ」とも言いもしたんだし… って、牛や馬に失礼か、コレじゃ。「同類相求む」、でいいか… いくら自分にとって現状が不満、不当、不本意だろうが己の分とやってきた事の結果が現在でしかないんだから
「それが貴方の望んだ世界」
 ってか? 実際そういう人も多く見てきてはいるけれども… 他者の義務感や善意や我慢や忍耐や厚意やお約束の無い地平にただ一人でいる事の孤独を、無知であり無恥であるからこそ行き着く世界は因果応報自業自得とも思うけれども、それでも其奴らのような人は言うんだろうなぁ…
「解ってくれない。」
「これは本当の自分じゃぁない。自分が本気を出せば… 」
「誰も助けてくれなかった。言ってくれなかった。」
 っと、鏡に映る自分の姿ではなく、何処かに、自分以外の誰かに向けて。
 
 だから一人ぼっち、なんだろうけどね。
  
 自分が生きる事で手一杯、精一杯の子供や老人の世界が狭いものなのは仕方無いが、それとて実は誰しもという訳じゃぁない。違う人は、「違う」。それだけの事。自分以外を貶める事でしか「違う」という事を示せれないんじゃぁないのよ。誰某というたかが自分の周囲の人間と競い比べる事でしか「違う」という事が解らないって訳でもねぇんだけどなぁ… そりゃまぁその「違う」って事が何もかもいい事、正義、利益、評価でもないし、そっから先もシンドイ事も面倒な事も一杯あるんだけど、自分という存在を認識してくれて評価してくれる人達の囲まれている事の閉塞感よりも、自分という人間なんぞ無価値で無関心な世間、社会、世界の広さってのも悪くないと思うんだけどなぁ… まして、五体満足で、何処にでもいそうな、普通で、平凡で、特にとりたてて感じる事も思う事も見当たらない身形で容姿なのに、私よりもまだ若かろうに、そないに今の自分に固執しなきゃぁならんもんなんかのぅ… 蜂房鵠卵を容れず、とは言うものの、大きさなんて当人自身よぉ解らんってのに何もわざわざ自ら狭めんでもよかろうになぁ… 人の器量の大きさを例えるのに「器」って言うじゃない? 器ってさ、材質が何であれその材質だけでは器になんないじゃない? 誰かが手にし、加工し、彩色して器になるんだし、それに何をどう盛るのかも誰かじゃない。誰かが管理してくれるから維持、保存されるんであって、その自分以外の「誰か」ってのを思うだけでちょっとは変わる事もあるだろうし、いつもとは別の見えるものもあると思うんだけどなぁ…
 
 失う事でしか見えない、感じれない、気がつかない事、ってのはあるのかもしれない。
でも、自分が持っていないしこれからも持つ事は出来ない物事だからこそ、今持っていて享受している他人の物事がよく見えて、そんな彼ら彼女らの当たり前さや当然さや無自覚さが羨ましいし嫉ましく腹立たしい反面、歪み、捩くれ、崩れ、零れて落ちて失われゆく様もよく見えて、その様は羨ましさや嫉ましさと同じくらいに、勿体無い、切ない、可哀相、って見えたり思ったりする時も事もあるんだけど、ね…